川の字で寝ていて、昨日は隣に息子、そのまた向こうに娘、と並んで寝ようとしていた。子供たちは大抵こちら側に過度に寄ってきて、壁と子供に挟まれて身動きが取れなくなる。だからもっと離れるように促す。まず娘の名前を優しく叱るような調子で呼んで、もうちょっとそっちに行きなさい、と声をかけた。娘は素直に少しずれる。次に同じ調子で息子の名前を呼ぶと、息子はニタニタと笑いながら、すかさず同じ調子で「お父ちゃん」と返してきた。予期せずお互いを呼び合った形になったことがおかしくて、笑ってしまった。息子も娘も笑っている。一本取られたので、他ではそういうことはしちゃいけないけど、今日はもうそれでいいよと声をかけて、そのまま寝た。狭かった。
バリウムキャンセル
初めて今回の人間ドックでバリウムをキャンセルしてみたのだが、キャンセルしていなければ今日一日中あの白い排泄物のことを考えて過ごしていたところ、キャンセルしたことでそのことから解放され、実に晴々とした気分だ。前回の人間ドックが諸々のスケジュールの都合で半年前だったので、おおよそ困ることにはならないだろうという判断で積極的なキャンセルに至ったのだが、ひとまず今日のところは成功と言っていい。バリウムを飲むことそれ自体はやぶさかではないが、とにかくその、白いそれについて考えるのが億劫。次回はそろそろ胃カメラに挑戦してみて、胃にカメラを入れられた人間の気持ちを知りたい。
言語化について
「言語化」っていう言葉があるじゃないですか。 あれって、なんとなくですけど、まだ言葉になっていない考えとか、感覚みたいなものがどこかにあって、それをあとから言葉にする、みたいな前提が含まれている気がするんですよね。つまり、言葉になる前の「何か」が当然ある、って疑わない感じ。
でも、私はその「何か」って本当にあるのかな、ってずっと引っかかっていて。 言葉じゃない考えとか、言葉によらない思考って、どうして在るって言えるんだろう、って思うんです。むしろ、言葉にされた瞬間に、はじめて「あ、ここに考えがあったな」って言えるんじゃないかな、って。
で、「言語化」という段階を認める立場に立つとですよね。 思考や感覚とは別に、「言語化する」という工程がある、って考えることになる。そうすると、今度はそこに上手い下手が出てくるわけです。
「あなたは言語化が上手ですね」とか、「私は言語化が苦手で」みたいなやり取り、よくありますよね。 でもこれ、ちょっと言い換えてみると変で。「あなたは考え自体は普通だけど、言語化が上手」とか、「私はすごく良い考えを持っているけど、言語化が苦手」って言ってることになる。
考えそのものが素晴らしいなら、わざわざ言語化だけを褒める必要ってないはずだし。 逆に、大した考えがないなら、それは言語化が下手という話でもないはずなんですよね。
こうやって考えてみると、「言語化」という独立した段階があって、そこに巧拙がある、っていう考え方自体が、なんだか無理がある気がしてきます。
結局のところ、言葉にしなければ、何も考えたことにならないんじゃないかな、って。
コーヒーの冷まし方について
音声入力でブログを書いてみたいなと思っていて、今日はコーヒーの話をしてみます。
毎朝コーヒーを淹れて飲んでいるんですが、しばらくの間、保温マグカップに入れて飲んでいました。いわゆる魔法瓶構造のやつで、温かさがけっこう長く持つんですよね。ただ、淹れた直後のコーヒーってものすごく熱いので、ちょうどいい温度になるまで、しばらく待ってから飲む、みたいな感じになります。
で、そうやって待っていると、今度はいつの間にか冷めすぎている、っていうことがよくあって、当然冷えたコーヒーって、そんなに美味しくないので、毎回ちょっとがっかりする、という感じでした。
最近、コーヒーを淹れるドリッパーについてきた、ガラスのビーカーみたいな容器で、そのまま飲んでみるようにしました。ガラスのビーカーは中身が冷めるのが早いので、淹れてから少しだけ待つと、もうちょうどいい温度になっていて、そのまま一気に飲もうと思えば、温かいうちに飲みきることができます。
あ、これ、意外とこっちのほうがいいじゃん、って思って、そんなことに最近気づきました。
Macの音声入力で入力したものを、ChatGPTに手直しさせた。音声入力では「ホーンマグカップ」になっていたものが「保温マグカップ」に修正され、割といい感じ。
迎春
息子からうつった軽い風邪と、寝ている間に息子が刺さってきたために寝違えた肩の二重苦を抱え、初春のお慶びを申し上げます。今年もよい年になりそうです。
カニのあるビュッフェで妻曰く、
カニを食べて得られるカロリーは、カニを食べるのに使うエネルギーより少ない。ほら、見てみろ、カニに真剣に取り組んでいる奴らは皆、痩せている。我々のような者は、あんなまどろっこしいことはできない。

